翻訳と辞書
Words near each other
・ ヘンリー・スタンベリー
・ ヘンリー・スタンリー
・ ヘンリー・スタンレー
・ ヘンリー・スチムソン
・ ヘンリー・スティムソン
・ ヘンリー・スティール・オルコット
・ ヘンリー・ステュアート
・ ヘンリー・ステュアート (ダーンリー卿)
・ ヘンリー・ストメル
・ ヘンリー・ストレイチー
ヘンリー・ストレイチー (初代準男爵)
・ ヘンリー・ストレイチー (探検家)
・ ヘンリー・ストレイチー (画家)
・ ヘンリー・ストンメル
・ ヘンリー・ストール
・ ヘンリー・スペンサー
・ ヘンリー・スペンサー (初代サンダーランド伯)
・ ヘンリー・スペンサー・アシュビー
・ ヘンリー・スペンサー・アッシュビー
・ ヘンリー・スペンサー・パーマー


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

ヘンリー・ストレイチー (初代準男爵) : ウィキペディア日本語版
ヘンリー・ストレイチー (初代準男爵)
初代準男爵サーヘンリー・ストレイチー(Sir Henry Strachey, 1st Baronet、1737年5月23日 - 1810年1月3日)は、イギリス官僚政治家
== 生涯 ==
ストレイチーは、サマセット州のサットン・コート (Sutton Court) の主だった同名の父ヘンリー・ストレイチーと、その最初の妻で、スコットランド人医師ロバート・クラーク (Robert Clerk) の娘であったヘレンとの間に生まれた長男であった。祖父ジョン・ストレイチー (John Strachey) は地率学者であり、同名の曾祖父ジョン・ストレイチーは、ジョン・ロックの友人であった。
1762年インドにいたクライブ卿の私設秘書に任じられ、1768年ポンテフラクト選挙区 (Pontefract) から庶民院に選出されるまで、この職に就いていた。1774年までポンテフラクト選挙区選出で議席を占めた後は、1774年から1778年までと1780年から1782年まではビショップス・キャッスル選挙区 (Bishop's Castle) から、1778年から1780年まではソルタッシュ選挙区 (Saltash) から、1802年から1807年まではイースト・グリンステッド選挙区 (East Grinstead) から、それぞれ選出された。
ストレイチーは、1778年から1780年まで、兵站補給部長 (Clerk of the Deliveries of the Ordnance)、1780年から1783年までと、1783年には兵站管理部長 (Principal Storekeeper of the Ordnance) を務め、1782年には第二次ロッキンガム侯爵内閣において財務省政務官 (Secretary to the Treasury) のひとりとなり、1782年から1783年にかけては、シェルバーン侯爵内閣において内務省政務官 (Under-Secretary of State for the Home Department) のひとりとなった。1783年には、パリにおけるアメリカ独立戦争の講和に至る和平交渉に、リチャード・オズワルド (Richard Oswald) とともにイギリス側を代表して参加し、アメリカ合衆国を代表したジョン・ジェイジョン・アダムズベンジャミン・フランクリンらとの交渉に当たった。この交渉の結果、パリ条約が締結された。ストレイチーは、その後、1794年から1810年まで王室内務主事 (Master of the Household) を務めた。
1801年、サマセット州サットン・コートの準男爵に叙爵された。
ストレイチーは1810年1月に、72歳で死去し、準男爵位は長男のヘンリーが襲爵した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ヘンリー・ストレイチー (初代準男爵)」の詳細全文を読む



スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.